監督
増村保造
撮影
宮川一夫
脚本
新藤兼人
出演
若尾文子
長谷川明夫
山本学 |
この映画『刺青』をこのサイトで取り上げることには、かなり躊躇するところがあった。理由の一つは、読後感というのか鑑賞後感というのが、決して心に優しく、気持ちの良いと言えるようなものではなかったためである。しかしこのような個人的な映画に対する嗜好とは関係なく、いわゆる何かを映像として表現する映画として、この映画は、紛れも無い傑作というべきであろう。監督が増村保造、撮影が数々の名作(『羅生門』、『用心棒』、『山椒大夫』、『雨月物語』、『近松物語』等々)を撮り、”日本映画界の至宝”、”世界のミヤガワ”と讃えられた宮川一夫、そして脚本が新藤兼人である。映画として傑作にならないはずがないのであり、宮川一夫の画面の構成、光と影、色彩感覚だけでも、騙されたと思ってみて欲しいものである。
しかし脚本、監督、撮影がこの様に揃い踏みしたとしても、肝心の役者の演技が拙ければ、最近の映画やTVドラマのように学芸会になってしまうのだが、この映画においては、主演に若尾文子さんという稀代の演技者を得たのである。登場人物のほとんどが悪人というこの映画の中で、特に、若尾文子さん演じる質屋の娘、お艶の悪女っぷりは、半端なものではなく、それを見事に演じた女優若尾文子という存在あっての映画であろう。これだけの悪女を演じられる女優さんは、現在見当たらないようなに思われてしまうのである。
映画の概略は以下のようなものである。
大店の質屋の娘お艶(若尾文子さん)が、手代の新助と雪の夜に、道行気分で駈け落ちしてしまう。しかし、身を隠した船宿の権次夫婦によってお艶は芸者置屋に売り飛ばされ、そこで出会った刺青師の清吉(山本学)によって、背中一面に男を食い殺すという女郎蜘蛛の刺青を彫られてしまうのである。そしてこの女郎蜘蛛がお艶に乗移ったのか、それともお艶が持って生まれた本性からか、お艶は多くの男を次々と食い物にしていくのである。そしてこのお艶のために、何人かの男が殺されていくのだが、最後には、この女郎蜘蛛を彫った清吉自身によってお艶もまた殺され、清吉自身も自ら命を絶ってしまうのである。
この映画は、実に凄惨な物語であるが、この映画のリメイクを含めて、刺青を取り扱った映画が数多く作られていることから、刺青を主題とすることは、映画人にとってはたぶん魅力的なことなのであろう。しかし、この映画を越えるような作品は作られていないように思われるのだが、どうだろうか?
ところでこの映画を最初に見たのは、10代後半であった。”谷崎文学を完璧に映画化”なんてキャッチフレーズがあったかどうかわからないが、そんな理由を付けて見に行ったか、それとも妖艶なポスターの若尾文子さんを見たいと思って行ったのか、今となっては判然としないのである。たぶん後者であろうが、そのあまりの凄惨な場面と、お艶の背中一面の女郎蜘蛛とが長く記憶に残ったのである。その証拠に、学生になってからの何度目かの学園祭で、自分が提案したのかどうか記憶が定かでないが、どういうわけか凧を作って飛ばそうということになり、かなり大きな立体的な凧を作り、その凧に女郎蜘蛛という文字を大書して、秋の青空に舞わしたのである。今となっては、なんと幼稚なものだったのかと恥ずかしくなるほどである。
この映画のお艶は確かに紛れも無い悪女である。しかし、思うのであるが、このお艶のような本性とは、本人自身もそれに気が付いていないだけで、実は多くの女性(勿論全ての女性ではないことと、男も含めるべきでもあることをお断りしておくが)が心の奥の奥、即ち無意識の世界には持っているのではないのだろうか。そして、それが極めてストレートに出てきた場合がお艶であり、他の女性の場合には、これほどストレートではないが、何か形を変え、対象を変え、そして表現方法を変えて表に現われてくるような気がするのである。そのことを昔の日本人はよく理解し、そのために花嫁衣装に「角隠し」を用いたのであろう。宮本武蔵の「五輪の書」風に言えば、”手遅れになる前に、女性については、よくよく吟味あるべきことなり”ということになろうか。
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