監督
山本嘉次郎
出演
藤田進
大河内伝次郎
志村喬
黒川弥太郎 |
この映画は、昭和16年4月に日本帝国陸軍の加藤建夫(タテオ)少佐が広東の飛行第64戦隊に着任するところから始まり、昭和17年5月22日にベンガル湾上空で戦死するまでの戦いを描いたものである。
加藤建夫少佐が着任してから数ヵ月後、新鋭戦闘機「隼」が部隊に配備され、飛行第64戦隊は”加藤隼戦闘隊”となる。12月初旬にベトナムのフコク島に移動し、大東亜戦争開戦に備える。そして運命の12月7日、山下兵団の大船団の掩護を行ないこれを成功させ、休むまもなくペナン攻撃およびアロルスター攻撃を敢行する。さらに現マレーシアのコタバルへ移動し、独断でクアラルンプール攻撃を敢行し、初の空中戦を行い戦果をあげる。さらにタイへ移動しラングーン爆撃隊の掩護を行ない、コタバルに戻ってそこで正月を迎える。
マレー作戦の激しさが増し味方の損害も大きくなってくる中で、カハンに転進して落下傘部隊の掩護を行ったりしていたが、このような状況の中でシンガポールが陥落し、加藤建夫少佐は中佐に昇進する。そしてさらにビルマ作戦に従事し、ローエン攻撃を行う。こうした日々の戦いの疲れから病院に入院するが、5月17日にアキャブ前線基地に帰還する。しかしこの基地が敵地に深いためトングーの基地に引き上げることになる。ところが続く戦闘の中で、部下の戦闘機がジャングルに不時着してしまい、その捜索を待っていて敵襲を受け迎撃に飛び立ち敵機を撃墜するも、5月22日ベンガル湾上空で戦死する。
以上が、戦死後少将に特進し軍神となった加藤建夫の大東亜戦争における戦いのおおよその軌跡である。ところでこの映画は、陸軍省の後援で作られ1944年3月9日に公開されている。当時の戦況を考え、映画の冒頭に「撃ちてし止まん」とテロップが入ることから、明らかに国威発揚を意図したものであるはずであるが、実際にこの映画を見るとほとんど戦意高揚の意図は感じられず、加藤建夫という軍人が部下達と如何に戦ったかというドキュメンタリーのようになっているのである。
加藤中佐は天性の戦闘機乗りで、豪放磊落にして部下を思い、カメラを趣味とした茶目っ気のある人物であったということであるが、藤田進がこの加藤中佐を好演している。多くの部下が戦死して行くなかで、ある時加藤中佐が夕日に向かって以下のような軍人勅諭を朗誦する印象的な場面があるが、加藤中佐はまさにこのような想いで国家のために戦ったのであろう。
<軍人勅諭>
一(ひとつ)軍人は忠節を尽すを本分とすべし。
凡(およそ)生を我国に稟(う)くるもの、誰かは国に報ゆるの心なかるべき。況(ま)して軍人たらん者は、此心の固(かた)からでは物の用に立ち得べしとも思はれず。軍人にして報国の心堅固ならざるは、如何程技芸に熟し学術に長ずるも、猶寓人(なおぐうじん)にひとしかるべし。・・・(略)・・・ 抑(そもそも)国家を保護し国権を維持(ゆいじ)するは兵力に在(あ)れば、兵力の消長は是(これ)国運の盛衰なることを弁(わきま)へ、・・・(略)
上記の中で、「(そもそも)国家を保護し国権を維持(ゆいじ)するは兵力に在(あ)れば、・・・」という件があるが、現在の日本はこの基本的なことを忘れ、『平和、平和と言っていれば平和がくる』(司馬遼太郎は、これを”平和念仏”と評したという)という平和ボケになってしまっているようにしか思えないのである。
なおこの映画は、実際の隼戦闘機や爆撃機、捕獲した敵戦闘機を多数使用して撮影されたもので実際の空戦さながらであり、この映像を見るだけでも一見に値するであろう。また英軍基地の爆撃シーン等は円谷英二による特撮であるが、実写と見まがうばかりであり、これが70年近く前に撮影されたものとは思われないほどのものである。
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