監督
山下耕作
脚本
笠原和夫
出演
鶴田浩二
若山富三郎
藤純子
桜町弘子
名和宏
金子信夫 |
映画『総長賭博』は、三島由紀夫が絶賛したことでも有名である。巷間、三島はこの映画を”ギリシャ悲劇のようだ”と評したと言われているが、明示的に”ギリシャ悲劇”とは言ってはいない。以下に、『三島由紀夫映画論集成』(ワイズ出版、1999年11月25日発行)から、本作品に関する記述の一部を抜粋する。
このような理想的な環境で、私は、『総長賭博』を見た。そして甚だ感心した。これはなんの誇張もなしに「名画」だと思った。何という自然な必然性の糸が、各シークエンスに、綿密に張りめぐらされていることだろう。セリフのはしばしにいたるまで、何という洗練が支配しキザなところが一つもなく、物語の外の世界への絶対の無関心が保たれていることだろう。 ……(略)…… 何という絶対的肯定の中にギリギリに仕組まれた悲劇であろう。しかも、その悲劇は何とすみずみまで、あたかも古典劇のように、人間的真実に叶っていることだろう。
このように三島は、”その悲劇は何とすみずみまで、あたかも古典劇のように”と表現していて、ギリシャ悲劇とは明示的には言っていないのだが、古典の悲劇といえば、それは一般的にはギリシャ悲劇を指すであろうから、やはり”ギリシャ悲劇のようだ”と言ったと解釈してよいのであろう。ことほどさように、まさにこの映画はギリシャ悲劇のような”自然な必然性”によって、悲劇の連鎖が畳み込まれて行くのであり、そこに我々が魅せられるのである。
映画の概略は、以下のようなものである。
昭和10年春、東京の江東区で大きな勢力を持っていた天龍一家の総長荒川政吉が、一門の仙波多三郎(金子信夫)と政治家くずれらしい河島から、大陸で活動する政治結社への参加を求められていたとき、突然脳溢血で倒れ、再起不能な状態に陥ってしまった。そのため、一家の後継を早急に決めなければならないという問題が起こる。
荒川には総領子分の松田(若山富三郎)と、この松田と兄弟の杯を交わしている中井信次郎(鶴田浩二)がいたのだが、松田は3年前の桜会との喧嘩により、刑に服していたのである。そのため、中井が跡目に押されるのだが、”自分はもともと大阪の組に居たよそものの分際なので、総領子分の松田が跡目を継ぐべきだ”として辞退する。仙波はこれを承知せず、この二人に次ぐ(五厘下がりの)石戸(名和宏)を跡目に押し、一門の他の親分衆を買収して、石戸を二代目としてしまうのであるが、その目的は荒川組を政治結社に参加させることにあったのであり、このことが悲劇の始まりなのであった。
石戸の襲名披露の大花会を、中井の取り仕切りの下で半年後に伊豆の修善寺で行うことになるのだが、そんなとき松田が仮釈放で出所してくる。そしてこの間の事情を知って松田は激怒するが、中井の説得で思い留まるのである。しかし仙波の策略で、松田は再び石戸と対決することになり、中井が再びこれを仲裁するものの、松田の子分の音吉が石戸を襲ってしまうのである。中井は音吉を匿うのだが、中井の妻のつや子
(桜町弘子さん)は、松田の求めに応じて音吉を逃がし、その責任を取って自害してしまう。そしていよいよ二代目襲名披露の大花会の日になり、悲劇的な大破局へと突き進んでいくのである。
以上がこの映画のおおよそのストーリーであるが、三島由紀夫が「その悲劇は何とすみずみまで、あたかも古典劇のように、人間的真実に叶っていることだろう。」と評したように、この石戸の襲名から最後の破局までが、中井や松田を取り巻く人々の”人間的真実”によって引き起こされてしまうのである。例えば音吉の場合であるが、音吉は松田の苦衷を知ったが故に石戸を襲ってしまったのである。この音吉の行動を若さ故の浅慮と非難することはできるが、音吉の、親分松田を一途に想う”人間的真実”からなのであれば、誰が非難することができようか。
三島はまたこの映画について、「雨の墓地のシーンと、信次郎の松田殺しのシーンは、いずれもみごとな演劇的な間と、整然たる構成を持ったシーンで、私はこの監督の文体の確かさに感じ入った」と書いているが、これはこの映画を見ることによってしか感得できないであろう。
この映画には、他にも印象に残るシーンが多い。松田が修善寺において石戸を襲撃したとき、石戸を護衛していた中井組の組員と、今は敵対することになった音吉とが争うのだが、そのとき音吉の袖からヨーヨーが落ちる。このヨーヨーは、中井の妹で松田の妻になっていた弘江(藤純子さん)の居酒屋で働いていた娘と音吉が一緒に遊んでいたものであり、中井がその様子を見て、二人を夫婦にさせようとしていたため、いっそうの哀れを誘うのである。
恋愛悲劇の傑作として、本サイトでビビアン・リーの『哀愁』を取り上げている。そこでは、「この映画を観終わった後で、”もしあのとき、ロイの上官が自分の決断で二人の結婚を許可していたら、午後3時前に教会にいけたのに…”とか、……(略)……、その他の様々な運命のいたずらさえ無ければ、このような悲劇が起こらなかったのにと悔やまれてしまうのである。」と書いた。本映画でも同様に、”もしあのとき……”と思われてしまうのである。いずれにしろ本作品は、任侠映画における”悲劇”の傑作として、必見の名作である。
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