監督
内田吐夢
出演
中村錦之助
三国連太郎
高倉健
入江若葉
千田是也
田村高広
片岡千恵蔵 |
第五部巌流島の決闘では、吉岡一門を倒した武蔵(中村錦之助)が映画のタイトル通り巌流島で佐々木小次郎と対決するまでが描かれる。
歴史的にも有名な瀬田の唐橋に沢庵(三国連太郎)とお通さん(入江若葉さん)の姿があり、沢庵はお通さんに「武蔵がここを通る」ということを教える。再会したお通さんは武蔵に「ご修行の邪魔さえしなければよいのでしょう」と訴えるのだが、武蔵はやはりお通さんから逃れてしまう。
武蔵は江戸に向かう途中のある山中で、親を亡くした 伊織という少年に出会い、その少年としばらく荒地を開墾し米を作る。武蔵と伊織が丹精こめた米ができた時に、野武士が襲ってくるのだが、これを武蔵は村人と協力して打ち破る。このような中で宮本武蔵は、細川藩家老の長岡佐渡
(片岡千恵蔵)の知るところとなる。
野武士を破った後に武蔵は江戸に出るが、ここで柳生但馬守(田村高広)の知遇を得て、将軍家指南役に推挙されるが、それも適わず再び本阿弥光悦(千田是也)を訪ねる。その頃、細川藩の剣術指南として推挙された宿敵佐々木小次郎(高倉健)から武蔵に対する果し合いの書状が届く。こうして、ついに武蔵と小次郎の間の巌流島の決闘が行われることになるのである。この武蔵と小次郎の果し合いは広く世間の知るところとなり、お通さん、又八(木村功)、お杉婆(浪速千栄子さん)、朱美(丘さとみさん)らが集い来る中、いよいよ巌流島の決闘の日となるのである。以上が、宮本武蔵第五部巌流島の決闘のおおよその内容である。
第五部が第四部までと異なると思われる点は、第四部までの武蔵は、『剣に生きよう。これを魂と見て、常に磨き、どこまで自分を高められるか』(第二部冒頭)ということを目標として修行してきたが、第五部ではこれに対する反省のようになっていることである。このことは第四部までは、武蔵が乗り越えようとする人々が現れてきたことからもわかる。すなわち、宗彭沢庵であり、日観(月形龍之介)であり、柳生石舟斎(薄田研二)であり、本阿弥光悦であり、吉野太夫(岩崎加根子さん)であるが、武蔵はこれらの人々を剣を頼りに乗り越えようとしてきたのであるが、第五部ではこれらの人々に匹敵する人は現れない。
要するに第五部は、第四部までの生き方に対しての反省、内省の巻きのようになっており、内田吐夢監督の創作となっているように思われるのである。伊織と出会い農地を開墾し、江戸で本阿弥光悦の
弟子の刀砥師に出会ったことも剣に対する疑問を深める結果になったように思われるのである。その結果が、佐々木小次郎を倒して大海原を小船で戻るときの、原作にはない「所詮、剣は武器か」という言葉に凝縮したと考えられる。もちろんこの言葉の解釈は、この映画をみる人によって異なるであろう。
しかしそれでも第五部にも見所は多い。お通さんとの再会と別れ、伊織との暮らし、そして柳生但馬守との出会いなどである。また博労の熊五郎の前で飛んでいる蠅を箸でつかむ有名なシーンなども笑いを誘う場面として描かれている。将軍家への推挙が適わなかったときに、武蔵は屏風に絵を書き残し、この絵をみて柳生但馬守が「
虎を野に逸した 」というのだが、このシーンなども好きな場面である。また片岡千恵蔵の長岡佐渡はさすがの貫禄であり、この人からなにか言葉が発せられると、いかにもと思えてくるのである。
内田吐夢監督により5年の歳月をかけて作られた宮本武蔵を見てきたが、いまさらながら凄い映画である。中村錦之助という稀代の天才役者の凄さ、脇を固める役者の層の広さと、それぞれの役者の演技力(に加えて一種の教養のようなもの)、そしてカメラワークのすばらしさ、等々が相まってこのような映画が可能となったのであろう。
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