放浪記 東宝(昭和37年:1962)
監督
 成瀬巳喜男

音楽
 古関裕而

出演
 高峰秀子
 加東大介
 仲谷昇
 宝田明
 小林圭樹
 伊藤雄之助
 田中絹代
 草笛光代
 林芙美子が自伝的小説『放浪記』を出版したのは、昭和5年(1930年)、27歳のときである。この映画『放浪記』は、幼い頃は父母と九州などを行商し、父母と離れてからは東京でカフェーの女給などをし、食費にも事欠くような極貧ともいえるような生活を送りながらも書くことを止めずに、遂に『放浪記』で文壇に認められ、流行作家となった林芙美子の物語である。

  高峰秀子さん演ずる林芙美子は、本物の林芙美子もこのような人間であったのではないかと思えるような熱演、名演である。日々の生活に疲れ、男に恵まれずに常に裏切られ続け、それゆえにいつもふて腐れた、投げやりなような表情をしながら、それでも林芙美子は書き続ける。なぜ書き続けるのか? 映画の中で、林芙美子が以下のようなことを述べるシーンがある。

「私が詩を書いているのは ”これだけじゃないんだぞ” ”私の人生はこれだけで終わるんじゃないんだぞ”って 自分に言い聞かせて せめてもの慰めにしてんのよ」

「えらくなれるなんて 思ってやしないわ」

「それにねえ 私は学問がないからむつかしいことは書けないのよ 詩は学問がなくても書けるからね」

 林芙美子は、手当たり次第に職を求め、そして職を点々とする。就いた職業は、例えばセルロイドの色塗りの女工であったり、カフェーの女給であたりする。  カフェーには演劇人や文士を夢見る人物達が集うことが多く、芙美子はこうした人々を知ることになるが、その中に詩人で劇作家の伊達(中谷昇)がいた。伊達は芙美子の書いた詩を激賞し、芙美子はこの伊達と同棲するが、伊達は生活費を稼ぐことがないにもかかわらず愛人がいて、結局は騙されていたことになり、芙美子は別れてしまう。
 伊達に騙された後、芙美子が再び新宿で女給をしていると、芙美子が発表した詩を認める詩人達が訪ねてくるが、その中の一人に小説を書く福地貢(宝田明)がいた。芙美子は、再びこの福地の「寂しかったら、俺のところへ来いよ」なんて言葉に騙されて、この福地と同棲することになるが、しかしこの福地とも結局は上手くいかずに、再び別れることになる。
 こんな逆境の生活を送りながらも、雑誌『女性芸術』に寄稿する機会を得た芙美子は、自分の生活を元にした『放浪記』を書き上げ、これが評判を呼びついに文壇に第一歩を踏む出すことができたのだった。

 この映画には、林芙美子の周囲に現われる男として上述の伊達と福地の他に、加東大介演じる印刷工の安岡信雄と、小林圭樹演ずる画家の藤山武士がいる。安岡は妻を亡くしており、たまたま貧困の中の林芙美子と同じ下宿であったため、芙美子に好意をよせて何かと面倒を見ていた。また藤山武士は、木賃宿で『放浪記』を仕上げていた林芙美子と知り合い、以後最後まで生活を共にしている。
 成瀬巳喜男監督は、いわゆる”女性映画の名手”として知られているが、この映画では男というものも見事に表現しているように思われる。安岡はどこか飄々とした人物として描いており、藤山武士は、芙美子が女流作家として成功した晩年まで、芙美子を支える誠実な人物として描かれている。

 一方、男の風上にも置けないようなのが、伊達と福地である。伊達は、芙美子と同棲しながらも詩人の日夏京子(草笛光子)と二股かけるような人間であり、日夏京子に「男のくせにうぬぼればっかりの強いの 始末に終えないわね」「美男子だったら女をだます権利があると思ってんのよ」などと批判されているような男である。福地は、林芙美子の才能に嫉妬し、暴力を振るい、そしてわがままで芙美子を追い出しながら、しばらくすると自分が寂しくなって、芙美子に「帰ってきてくれ」と頼むような男として描かれている。
 もっとも福地の場合は、放浪記出版記念会に姿を現して、”……林芙美子が作家なら この僕もやせても枯れても作家の一人だ 赤の他人である作家として批判しようじゃないか …あの作品の中に ウソも隠しもない真実の美しさを見出した おふみ 「放浪記」はいい作品だよ …「放浪記」おめでとう 僕は君の才能と努力に敬意を贈る”という祝辞を述べるという一片の矜持を持つ男としても描かれている。

 以上のように、この映画には様々な男達が描かれているが、男とは、それが表に現われるかどうかの違いはあるにしろ、こうした多様な人格的な要素を持っているような気がしてしまうのだが、こうのように思うのは筆者だけなのだろうか。それとも多くの方々も、同様に多様な人格を共存させている考えることがあるのだろうか。
 
 いずれにしろこの映画を印象深くしている最大の要因が林芙美子の人生であることは明らかであろうが、成瀬監督の厳しい要求に答えたはずである高峰秀子さんの演技は特筆すべきものであり(もちろん、他の出演者も素晴らしい)、この映画を忘れがたいものとしている大きな要因と思われる。例えば伊達と分かれた後、再びカフェーで働く場面がある。このときの日記には「…めちゃくちゃに狂いたい気持ちだった。 めちゃくちゃに人がこいしい……」と書いているが、他の女給とお盆を持って歌に合わせて踊るときの仕草や表情からは、まさにこの日記のような感情がほとばしるようであり、歌い踊る姿に共感している自分を見出してしまうのである。

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