近松物語 大映(昭和29年:1954)
監督
 溝口健二  

撮影
 宮川一夫

音楽
 早坂文雄

出演
 香川京子
 長谷川一夫
 進藤英太郎
 田中春男
 南田洋子
 小沢栄太郎
 監督は溝口健二、脚本を依田義賢、撮影が宮川一夫、そして音楽を早坂文雄が担当しているが、これだけで、この映画が凡作でありえようがないことを知ることができる。原作は近松門左衛門の「大経師昔暦」であるが、もし日本語が英語のように世界的な言語であれば、近松門左衛門はシェークスピア同様に世界的に評価されていると思われる劇作家である。この映画は、京都で暦発行の権利を持つ大経師屋の女房おさん(香川京子さん)と、そこで働く腕のいい手代茂平衛(長谷川一夫)との悲劇である。

 おさんは、実家のために年の離れた大経師屋の主人以春(進藤英太郎)に後妻に来たのであるが、相変わらず実家からお金の無心は続いていた。ある時、家を抵当に入れた借金返済のために実家の兄(田中春男)が忍んで金の工面を頼みにくることから、この悲劇が始まるのである。

 おさんは、大経師屋が極めて吝嗇であるため内緒でお金を工面しようとして、店の帳簿も扱っている茂平衛に頼んでしまう。茂平衛は、秘かにお金を工面しようとしているところを番頭(小沢栄太郎)に見つかってしまい、結局そのことを以春に知られてしまう。ところが、以春が妾にしようとしたお玉(南田洋子さん)が、自分が茂平衛に頼んだことだと言い出したことから、以春の怒りが爆発する。そして、茂平衛、おさん、お玉の間に不運が重なり、茂平衛とおさんがこの家を逃れていくことになる。こうして、二人の逃避行、道行が始まるのだ。
 二人は姿かたちを変えて逃れていくのだが、ついに大経師屋と役人の追っ手から逃れられないと思い、身を投げようとして夜になった湖に漕ぎ出すのである。ここで、以下のようなやり取りがかわされる。


茂兵衛:「お覚悟は、よろしいのでございますな・・・」

おさん:「私のために、お前をとうとう死なせるようなことにしてしまうて、許しておくれ」

茂兵衛:「なにもおっしゃいますな。茂兵衛は喜んでお供するのでございます。・・・・・いまわの際なら、罰も当たりますまい。この世に心の残らぬよう、一言お聞きくださりませ。茂兵衛は、茂兵衛は・・・とうから、あなた様をお慕いもうしておりました・・・」

おさん:「エー!、・・・私を」

茂兵衛:「へ、」

<茂兵衛はいよいよ湖に身投げをすることをおさんに促す。>

茂兵衛:「しっかり、しっかりつかまっておいでなさりませ」
茂兵衛:「おさん様、おさん様、どうなさりました」
茂兵衛:「お怒りになりました? 悪うございました」
おさん:「お前の今の一言で、死ねんようになった・・・死ぬのはいやや。生きていたい!・・・。茂兵衛!」


 文字に書き起こしてしまえばこれだけのことなのだが、長谷川一夫と香川京子さんによって演じられ、宮川一夫によって撮影され、早坂文雄の音楽が流れると、奇跡のような場面となるのである。山田洋二監督の言葉だったと思うが、映画は総合芸術であるということが、まことにこのシーンをみるだけでもそう思われる。それにしても、最近の映画のセリフに較べて、”このセリフの美しさはなんだ!”、と言いたいくらいである。

 こうして二人の道行きは更に続いていく。そして峠を越えて、茂兵衛の父親が住んでいるところまで辿りつくが、ついにおさんはそこで以春の追っ手によて連れ戻され、実家にあずけられてしまう。しかし、茂兵衛はおさんの実家まで忍んでゆき、再びおさんと共に逃げるが、それも束の間ついに京都所司代によって捕縛されてしまうのである。最後、二人は馬に乗せられ引き回されて刑場に向かうところで終わるのだが、そこには晴れやかなおさんの表情があったのである。

 それにしても、この二人にかかわる人々、大経師屋の主人、番頭、同じ商人仲間、おさんの実家の兄、等々が極めて酷い人々なのだが、それが決して不自然さを与えないのである。溝口監督の優れた作品群の中でも、この近松物語は傑作であろう。

 我々観客は、最初の大経師屋の店のシーンが始まるだけで、まさにその時代にいるような錯覚に陥ってしまうのである。溝口監督は、忠臣蔵を作ったとき、江戸城の図面を基に実寸の松の廊下を再現したことでも知られているが、完璧な時代考証によって大経師屋が再現されていて、この当時の大映のスタッフの技術力にも驚くばかりである。

 こうした完璧な背景の中、弛みのない緊張とともにおさんと茂兵衛の悲劇の道行きが最後まで進んで行くのであるが、各場面の演出は見事というしかないものである。また宮川一夫の撮影は、上記のおさんが身を投げようとすることを思い止まる場面も含めて、全編にわたって完璧なものであり、早坂文雄の音楽と相俟って、この映画を最高のものの一つとしているのである。まことに名作というしかないと思われる。

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