海軍兵学校物語 あ々江田島 大映(昭和34年:1959)
監督
 村山三男 

音楽
 木下忠司

出演
 本郷功次郎
 野口啓二
 小林勝彦
 仁木多鶴子
 村山三男監督は、多くの戦争映画を監督しており、戦争映画の巨匠とも言われている。この映画『海軍兵学校物語 あゝ江田島』は、世界三大兵学校の一つと称えられた広島の江田島にあった海軍兵学校において、大東亜戦争(太平洋戦争)中に、厳しい規律と激しい訓練に明け暮れた青春を送った若者たちを描いている。

 映画は、海軍兵学校生徒で戦争を生き残った石川(小林勝彦)が、兵学校の裏にある古鷹山に登るシーンから始まる。山を登り切った石川は江田島の海を望み、思わず「海は死んでいる」とつぶやくのであった。

 昭和17年12月、石川や、親友であった村瀬(野口啓二)たちは、兵学校に入学した。そして、現在では考えられない江田島での厳しい学校生活が始まっていくのである。

 映画は特に、村瀬と、1号生徒、即ち最上級生である小暮生徒(本郷功次郎)との関係を中心として描いていく。

 村瀬は母の再婚が原因でぐれてしまったが、教師の勧めで兵学校に入学してきたのである。一方の小暮もまた、実は村瀬と同じ中学校の先輩であり、同様にぐれて教師をてこずらせてきていたのであり、自分のそのような経験から、村瀬が嘗ての自分のように思えて特に厳しく対応していたのであった。

 そして激しい訓練の中にも一年が過ぎていき、木暮たち一号生徒は兵学校を卒業して、戦列に赴いて行くのであった。残った村瀬や石川たちの訓練はさらに一層厳しくなるとともに、アメリカ軍の反攻も日ごとに激しくなり、ついにある日、兵学校もアメリカの戦闘機の攻撃を受けてしまうのである。
 目の前で船が沈められ、敵機に機銃を撃っていた兵士が倒れると、思わず防空壕を飛び出した村瀬は、グラマンに対して機銃を打ちまくって撃墜するも、自分もまた機銃掃射によって倒れてしまう。
 アメリカの攻撃はさらに激しくなっていく。そして兵学校生徒の多くが、特攻として倒れ、小暮生徒もまた回天搭乗員として、散華してしまうのであった。

 ついに戦争が終わり、14年の時が経過した。生き残ってしまった石川は、嘗て幾多の戦友と共に学んだ兵学校の古鷹山に登ってきたのである。そこで、嘗ての兵学校の教授の娘田口由美子(仁木多鶴子)と再会し、”残された自分達は、生きていかなければ行けない、生きて苦しみに耐えて行かなければならない”、と確信するのであった。

 この映画の公開は、昭和34年(1959年)、即ち、大東亜戦争が終わってからわずかに14年である。まだ、江田島の海軍兵学校で学び、国家の存亡をかけた戦争を戦い、生き残った人達も多かった頃であろう。その方たちに、この映画はどのように映ったのであろうか

 いずれにしろこの映画を見ると、もしこの海軍兵学校に準ずるような教育を、若く真摯な頃に受けていたなら、もう少しましな人生を送れてきたのかもしれないかなとも考えてしまうのである。この映画において、以下のような”海軍五省”が紹介されるシーンがあるが、まことにこのような反省とは程遠い日々を送ってきてしまったものだと、改めて感じてしまうのである。
 
<海軍五省>
 一 至誠に悖るなかりしか
 一 言行に恥ずるなかりしか
 一 気力に缺くるなかりしか
 一 努力に憾みなかりしか
 一 不精に亘るなかりしか

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