東京物語 東宝(昭和28年:1953年)
監督
 小津安二郎

出演     
 笠智衆
 東山千栄子
 山村聡
 杉村春子
 原節子  
 香川京子
 小説「風の盆恋歌」の作者である高橋治は、かつて映画監督としても活躍したが、助監督時代に小津安二郎の東京物語の助監督をしている。この人が著書でこんなことを書いていたように記憶している。

 高橋氏がヨーロッパに行ったとき(たぶん留学したときであろうか?)、ヨーロッパの文化人達に自分が作家で以前は映画監督であったと紹介したが、特に反応はなかった。ところが、助監督時代に小津安二郎監督の東京物語の助監督をしたというと、彼らの対応が一変したというのである。すなわち、奇跡の作品が作られる現場に高橋氏が立ちあったというのである。このように、この東京物語という作品は現在では世界各国で高く評価されており、いろいろな国で世界の映画の20世紀のベスト10を選ぶと、必ず本作品が選ばれるといわれている。

 この映画は、 尾道に暮らす平山周吉(笠智衆)とその妻のとみ(東山千栄子さん)が東京に暮らす子供たちの家を(たぶんはじめて)訪ねるために旅行にでて幾日かを過ごして尾道に帰るが、とみが帰省の列車の中で体調を崩し、尾道に帰るとまもなく危篤におちいり、子供達はとみの危篤を伝える電報で尾道に帰るが、とみは結局亡くなってしまい、葬儀を終えて子供達が再び東京に帰るまでを描いている。

 映画のストーリーとしては、ただこれだけである。この中で、周吉ととみの東京の長男(山村聡)と長女(杉村春子さん)の家での出来事や、東京見物をしたり、戦死した次男の嫁だった紀子(原節子さん)のアパートに行ったり、熱海の旅館に行ったり、旧友を訪ねたりすることが描かれている。映画的なクライマックスがこの映画にあるとしたら、それはとみの葬儀の後、子供達はすぐに帰ってしまい、残った紀子と周吉が話す場面から列車で東京に帰る場面であろう。しかし、それとて比較的淡々と描かれている。

 以上のようなストーリーの映画であるにもかかわらず、見ているときも見た後でも、静かな感動を与えてくれるのである。この映画は家族を描いているために、映画を見ている人の立場によって感じ方がことなるであろう。親か、子供か、または現在では少ないが紀子のような立場の人、それぞれによってこの映画から受ける感動は異なるであろう。そうであれば、個人的な感想はあまり意味がないのかもしれない。なおストーリーとは別に、この映画の画面構成の見事さはため息の出るほどである。

 ところで、佐藤忠男著『日本映画史1〜4』においてこの作品に触れており、4で電報を受け取った長女が、喪服を持っていくかどうかを長男と相談するところを喜劇的と評しているが、私的にはこの佐藤の考えには同意できないのである。佐藤は、”・・母がまださほど重病だと言われているわけではないうちからお葬式を勘定に入れているのは不謹慎であるうえに・・・”と書いているが、電報は『母危篤』といっているのであり(本当は佐藤氏に、「このような名作を評するなら、見直してから評したら」と言いたいくらいである)、東京と尾道の距離を考えれば、決して不謹慎ではないように思われる。長女も、喪服を持って行くことにした後で、「持っていって役にたたなければこんな結構なことはないのだもの」といっており、決して不謹慎でも、喜劇的でもないではないか。佐藤忠男の東京物語のこの場面の評は、私的にはいささか疑問である。

 この映画を無理にでも評するとすれば、一種の仏教の無常観を基調としていると言えるのではないかと思われる。東京では元気だったとみ(それにしても、東山千栄子さんの人を包み込むこの笑顔のすばらしさはどういうべきか。いまの役者さんにこれだけの笑顔ができる人がいるのだろうか)が尾道に帰って直ぐに亡くなってしまったり、母とみが亡くなったときには心から悲しんで泣いている長女が、葬儀が終わってみんなで食事をしているときに、形見分けとして帯が欲しいといったりするが、これらは命のはかなさや心の変わり易さを現しているように思われるのである。

 いずれにしろ、立場や年齢によってこの映画の感動は異なるが、家族という普遍的な問題を扱い、ひとつひとつのせりふに様々な解釈が可能な世界的に評価される作品が作られたことは、まさに奇跡である。


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