ライムライト アメリカ(1952)
製作
監督
脚本
 チャールズ・チャップリン

音楽
 チャールズ・チャップリン

[出演]
 チャールズ・チャップリン
 クレア・ブルーム
 シドニー・チャップリン
 バスター・キートン
 この映画『ライム・ライト』は、以下のような記述から始まる。

 The glamour of limelight, from which age must pass as youth enters.

 A story of a ballerina and a clown・・・

 映画の日本語字幕では、「華やかなライムライトの陰 老いは消え 若さに変わる」となっているが、「華やかなライムライト(スポットライト)、そこから老人は去らねばならず、そして若者が登場する」というような意味であろう。
 老人とは道化役者であり、若者がバレリーナである。この映画は、この道化役者とバレリーナの物語である。
 
 1914年の夏のロンドン。午後遅く、嘗て喜劇役者として名声を博したカルヴェロ(チャップリン)が、いつものように酒に酔ってアパートに帰ってくると、一階の一室からガスが漏れているのに気が付く。その部屋で若いバレリーナのテリー(クレア・ブルーム)がガス自殺を図っていたのである。カルヴェロは、とっさにドアを破り、テリーを助ける。これが二人の運命的な出会いだったのである。

 テリーは、自分の生い立ちや境遇による心の病が原因で、バレーを踊れなくなっていた。そしてカルヴェロもまた、嘗ての名声にもかかわらず今では舞台に立つことができないという不遇をかこっていたのである。

 テリーが再びバレーを踊れるように励まし続けていたカルヴェロに、待っていた舞台の出演依頼がくる。待ちに待った舞台であり、カルヴェロは喜び勇んで出演したものの、公演の途中で大半の観客が帰ってしまうという無惨な結果に終わってしまったのだ。

 失意に沈むカルヴェロを、こんどは逆に必死に励ましていたテリーは、我知らず歩きだしていた自分に気が付くのである。そしてバレリーナとして再起することができたテリーは、すぐにその才能が認められ、評判を得て、遂に新作バレーの主役として抜擢される。その出演契約が成立すると、その時を待っていたテリーはカルヴェロに愛を打ち明けるのであった。

 カルヴェロも道化として出演したこのテリー主役の新作バレーは絶賛を博し、二人に幸福が訪れるかに見えた。しかしカルヴェロは、道化役が不評であったことや、カルヴェロ自身が既に老いており、テリーの相手にはこの新作バレーの作曲家のネヴィル(かつて、テリーが文房具店で働いていたとき出会っていた)こそが相応しいという思いから、行方も告げずにテリーのもとを去ってしまうのである。

 いつしか時が経ち、大道芸人として街角で芸を披露し、いくばくかの稼ぎを得てていたカルヴェロは、あるレストランでネヴィルに出会うのである。そしてネヴィルからカルヴェロの話を聞き、ロンドン中を探していたテリーは、遂にカルヴェロと再会するのであった。

 テリーや劇場主の奔走により、カルヴェロが再び舞台に立つことになる。この舞台で、カルヴェロは観客から喝采を浴び、いつか演じてみたいと構想していた内容をアンコールとして演じる(バスター・キートンとの共演である!)が、勢い余って生命にかかわるほどの怪我をしてしまうのであった。自分の死を予感したカルヴェロは、引き続き演じられているテレーズの舞台を見たいと言って運ばれた舞台の袖で、ライムライトを浴び、”ライムライト”の美しい旋律にのってテリーが踊る中、静かに息を引き取るのであった。

 以上が、映画史に残るチャップリン晩年の傑作『ライムライト』の大まかなストーリであり、多くの人がその美しい旋律を聞いたことがあるであろう。

 チャップリンがこの映画を監督したのは64歳のときである。それまでに積み重ねた様々な人生経験から導かれたものと思われるチャップリンの人生観(人生哲学とさえ言えよう)や恋愛観についてのきらめくような言葉が、全編に散りばめられている。これらの例をいくつか挙げてみたい気もするが、これらの言葉は、素晴らしい映画のシーンの中でこそ聞くべきものであろう。

 その人生における舞台を異にし、そしてライムライトの輝きの明るさにも大きな違いがあるかも知れないが、多くの人々もまた、なんらかのライトを浴びる一時期があり、そしてそのライトから消え去っていくのかもしれない。この映画は、こうした人間の人生の哀歓を描いてあまりある必見の名作というべきであろう。


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