汚れなき悪戯 スペイン(1955)
監督
 ラディスラオ・バハダ

出演
 パブリート・カルボ
 ラファエル・リベレス
 アントニオ・ビコ
 フアン・カルボ
  この映画『汚れなき悪戯』の原題は、『パンとワインのマルセリーノ』であるが、この呼び名は主人公であるマルセリーノ少年がイエス・キリストによって付けられたものである。このことからわかるように、キリストにより起こされた奇跡を描いた類まれな美しさを持つ珠玉の作品である。
 世界の映画史の中において、小津安二郎監督の『東京物語』のような奇跡の作品と言われるものがあるが、私的にはこの『汚れなき悪戯』もまた奇跡の作品と呼ぶべき映画の一つである。実際、この映画をリアルタイムで映画館で見ていらい、映画の内容も、そして最後に起きた奇跡のシーンも忘れることはなかったのである。

 映画は、村の丘に立つ教会に多くの村人が集まる楽しい祭りの情景から始まる。そんな中で一人の修道士が、病で臥せっている少女を見舞い、その祭りが行われることになったマルセリーノの物語を話して聞かせるのであった。
 
 この村は嘗てフランス軍の支配を受けたが、村人もスペイン軍に協力してこれを撃退した。しかし、村は戦禍に荒れたままであった。そんな村に三人の修道士が訪れ、村人の協力を得て修道院を建てるのである。そして何年かが過ぎて、修道士達も12人になっていた。
 ある日のこと、この修道院の前に産まれたばかりの赤ん坊が置かれていたのである。この名前もわからない子のために、修道士たちは、拾われた日の聖人の名前に因んでマルセリーノと名づけるのである。それから修道士たちは、手分けしてマルセリーノの母親がいないかを村中で捜すのだが見つからなかった。そこで、この子を大切に育ててくれそうな家族を捜すのだが、相応しい家庭も見出せなかったため、12人の修道士たちは、自分達でこの子マルセリーノを育てることにするのであった。

 そして5年の時が過ぎて、心優しい12人の修道士の手で育てられたマルセリーノ(パブリート・カルボ)は、元気で純真無垢な子供に成長していた。マルセリーノは修道士たちに、”お粥さん”や”鐘さん”といったあだ名を付けたり、様々ないたずらをして日々を過ごしていたのである。マルセリーノが教会でどのように育てられているかは、この映画の主題歌でもある「マルセリーノの歌」を聞けばわかるであろう。

<マルセリーノの歌>
 お眠り マルセリーノ
  もうすぐ夜が明けるけど
 お前の一日と魂は
  12人の坊さんが守ってる

 お起きよ マルセリーノ
  もう目は覚めたね
 お前の一日と魂は
  12人の坊さんが守ってる

 顔を洗って マルセリーノ
  石鹸で よく洗いなさい

 しっかり食べなさい
  ”お粥さん”のようにね

 しっかり食べなさい
  パンとオムレツを

 とてもよく鳴る鐘だ
  ”鐘さん”と一緒だもの
 ティリン・・・ タラン・・・ 
  ティリン・・・ タラン・・・

  (以下、略)

 まことにマルセリーノは、この歌のように12人の心優しい修道士達に見守られすくすくと育っていたのである。そんなある日のこと、修道院の前で一台の馬車の車輪が壊れてしまう。それを見に行ったマルセリーノは、自分と同じぐらいのマヌエルという子を捜すお母さんに出会うのである。そしてその日からマルセリーノは、会ったことないのマヌエルを友とし、天国へ行ったという母の面影を追い求めることになるのだった。
 マルセリーノの悪戯は、寂しさのためからか次第に度が過ぎていく。そのため、大好きな修道士から説教されたり、たしなめられるのだが、「絶対に二階には行ってはならない。大男がいてさらわれる」とも脅されるのだった。”駄目だ!”と言われれば、冒険してみたくなるのが子供である。マルセリーノもまた二階への誘惑に駆られるのだった。
 そしてある時、修道士達の目を盗んで恐る恐る二階へと上ってみるマルセリーノだった。二階に上がり、部屋を開けて見ると、そこには農機具などが置かれており、そしてその奥にさらにもう一つの部屋があった。マルセリーノはその奥の部屋のドアを思いきって、しかしそっと開ける。そこでマルセリーノが見たものは、・・・・。 これが、”パンとぶどうのマルセリーノ”の奇跡の始まりだったのである。

 この映画に描かれた奇跡の意味を、キリスト教徒でない小生にはたぶん理解できていないであろう。残酷とも言える結末なのかもしれないが、この映画を始めてみたとき、しばらくの間、涙が止まらなかったことも事実である。そして今、見直してこの感想を書いていても、どうしても感動が溢れてきて、目が自然と潤んで来てしまうのである。

 この映画のマルセリーノの純真無垢さは、全ての人間が幼い頃には持っていたものであろう。しか し考えてみれば、人生とは、あるいは、人生を生きるということは、残念ながらこの純真無垢さを少しずつ失い、その代償として、純真無垢さとは正反対のようなものを、まやかしかも知れないが”生きるための知恵”として得ていくことなのかも知れない。イエス・キリストは、あまりにも美しく無垢な魂を持ったマルセリーノに、そのような人生を与えたくはなかったのだろうかと思わずにはいられないのである。
 この映画を見ているときには、映画ということを忘れて、実際に起きている奇跡を見ているように思われるのだが、その間だけでもマルセリーノのような無垢さを取り戻すことができたら、例え一時ではあっても、人は幸せなのかもしれない。現実に戻れば、”生きるための知恵”を学んできてしまったことを知ることになるにしても。

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